愛って相手を理解したいと思うこと。

今日も朝から夫婦で散歩へ出かけてきました。散歩といってもあれですよ、近くをのんびり歩いて…とかじゃなく、毎回散策ルートを用意して(ネットなどで調べているらしい)、スタート地点まで車で行き周遊するという遊びです。これが結構面白いのです。(様子は谷口佳奈子インスタグラムでどうぞ笑)

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先日友人が「犬を飼うようになってから夫婦で一緒に散歩することもあり2人の会話が増えた」と言っていましたが、ゆっくり2人で話したい人にはオススメです、散歩。我が家は「歩くだけで楽しいな!ははは」みたいなテンションで散歩しているので、ゆっくり話す時間じゃないんですけどね笑。どちらかと言えば街ブラより山ハイキングの方がじっくり話すかもしれません。

というか、うちはいつもよくしゃべってるから独り時間の方が少ないんですけど。特に夫が色んな話をしてくれるので私にとっては凄くありがたい。話自体も興味深くて面白いし、話を聞くことで彼の考え方や生きがいや嫌なことなんかもわかるから。

以前にもこういう記事を書いてますが、愛って相手のことを理解したいと思うことじゃないかなと、ふと思ったんですよね。生物的な性質も含めてね。

ついでにいうと、相手を知りたいと思うのが恋、かなと。これは私の中での価値観なのでしっくりこない人もいるでしょうけど、知ると理解するって少し違うんですよね。昨日書いた聞くと聴くみたいな違い。

その人が何に興味があるんだろう?どんなお店に行くんだろう?どんな食べ物好きなんだろう?とかは“知りたい”の分野で、どんなことを人生の軸にしているんだろう?どういう特性があるんだろう?それを活かすにはどういう対応がいいんだろう?どういういことが苦手なんだろう?というその人の根幹部分に関しては“理解したい”の分野、という感覚です。

理解には【嫌なことも含まれる】と思うんですよね。その部分も含めて受け入れようというのが愛だなと感じています。

でね、「愛されていない」と感じているときって「自分のことを理解されていない」と感じていることでもあるんだなと氣付いたわけです。もしくは「理解したいとは思ってくれていないんだな」とガッカリしてしまうとか。

存在価値へ結びついているからみんな愛を欲するんですよね。ハグをするとか愛してると言葉で伝えることは表現のひとつであって、そもそも求めているのは【自分という存在を理解し受け入れてくれること】のはず。

ただひとつ伝えておきたいのは、理解できないから愛せないという公式は成り立たなくて、理解しようとする行為が愛そのものだということ。そうすると至るところに愛は溢れていて当然で自分から湧き出るものでもあるとわかる。

愛 to 愛

愛で満ちる世界は創れる。まずは目の前にいる大切な人のことを理解していこう。もちろん自分のこともね。

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