「誰かを助けたい」で自分を救おうとしてない?

おはようございます。週末デートもお預けとなり、もっぱら夫婦で映画を観ています。邦画って、最初はなんとなく「何これ?」みたいな入り方しちゃうんだけど、最後には「いい話だった」と感動していることが多いです。皆さんのオススメ邦画は何ですか?

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誰かを助けたいという想い

人の役に立ちたい、誰かのためになりたい、そう思う人は少なくありません。そうでなければ自分が生きる価値が見いだせない、とまで感じてしまう人もいます。

今こういう状況の中で、実際に困っている人も増えていて、助け合おうという雰囲氣も高まっています。だからこそ、より一層「誰かを助けなければ」という義務感が生まれがちです。

達成感に変わっていない?

仮に、誰かを助けることが自分の義務だったとして、そうすることが「自分を満たす行為」に変わっていませんか?偽善という意味ではなく、知らずのうちに「自分を表す行為」になっていないか?ということです。

過去の自分にもそういうところがありました。自分のアドバイスで誰かが「ありがとうございます、佳奈子さんのおかげです」と言ってくれるのを待っていたような。誰かを助けたいという想いの中に「あなたのおかげ」を待っている私が潜んでいたように思います。

自分が救われたいだけ

まだまだ“スペック”で自分の価値を計っていたんですよね。だから、感謝の量をバロメーターにしていたわけです。もちろん、ありがとうをたくさん戴くのは素晴らしいことです。でも、それをこちらが作りにかかっては本末転倒だと思うんです。

自分の心の隙間を埋めるために、誰かを助けるという手段は使わないこと。ますます隙間が拡がります。まずは、その隙間を自分で埋めるんです。今、自分にできることだけをやり続ける。

誰かを助けるのは義務じゃない

上に書いたように、誰かを助けたいという想いを“勝手に”義務化し、できなければ自分を責める。この一連の流れはよくあるパターン。そんな人に助けられたくなんかないよね。苦笑

誰かのことを考えるのは、自分がちゃんと立てている時にしよう。自分がグラグラだからと、「誰かを助ける私」という支えを利用しない。そもそも人はそんなに弱くない。誰かを弱者に仕立てないこと。みんなそれぞれに自分を生きるだけで大丈夫。

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