自分だけ断ってもいい。

おはようございます。千葉は雨です。自分が千葉に住むことになるなんて、思ってもみなかったなぁ。もうすぐ丸4年になりますが。人の縁とは不思議なものですね。

自分だけ断れない

人間関係で悩みがちな人は、相手にNOが言えません。嫌われたくない、良い人でありたい、その想いがつよく“断る”ということができません。心の中では「嫌だなぁ」と思っていてもです。我慢しているという意識さえなく、自動的にOKと引き受けています。

断るかどうかについても他者との比較は存在していて、「あの人は引き受けたのに、自分だけ断るなんて反感を買うに違いない」と恐れを抱きます。「きっとみんなはOKを出すだろう」という妄想の場合もあり、そこで誰かが断ったことを知ると「だったら私も断ればよかった」と落胆します。結局、断りたいことの方が多いのよね。

自分だけになりたくない

誰かと一緒なら断れる、というのは“自分だけ”が別の行動を取りたくない、ということですよね。“自分だけ”が嫌われたくない。誰かと一緒なら許してもらえるだろう。一体感というのか連帯責任というのか、これが日本特有の価値観なのだろうか?

これを書きながら『連れション』という言葉を思い出した。今でもあるのだろうか?女子中高生が連れ立ってトイレに行く。あれこそ、自分だけになりたくない、はみ出し者にはなりたくないが故の行動じゃないだろうか。変な習慣だわ。

主導権を譲るなかれ

断れない、という氣持ちもよくわかる。私もなんとなくOKした誘いに、後から氣が重くなったことはこれまでにある。嫌われたくないというよりは、相手に嫌な想いをさせたくない、という感情が強かった。断れない人にはこれも多いはずだ。

誰かに嫌な想いをさせることを非常に恐れていて、万が一そうなると罪悪感でいっぱいになる。相手が嫌な想いをするくらいなら、自分が我慢する。この考えがデフォルトだ。だから、自然と、相手の意見や希望に従う姿勢になっている。“他人軸”で生きるっていうのがこれ。

自分だけ断ってもいい

相手は聞き入れてくれたのに、こちらが断るのは礼儀として問題があると考えて、ギブアンドテイクを遂行する人もいる。プレゼントをもらったらお返しをしなければ、というのも同じ。仮を作りたくない、という感覚がはたらく。

自分だけ断ってもいいし、お返しをしなくてもいい。それに対して批判してくる人は、“その人の中に”、返さなければならないというルールがあるだけ。それは相手の問題であって、こちらの課題とは別領域。

それで離れていっても仕方がない

実際に、こちらだけ断った経験は何度もある。友人宅には泊めてもらって、こちらの自宅には泊められない、というパターンがあった。全然OK!と言ってくれる友達もいれば、なんとなく怪訝そうにしていた友達もいた。「泊めてもらったしなぁ」と申し訳なくも思ったけれど、お断りした。だって嫌なんだもの。

私は自宅に人を泊めることがあまり好きではない。その人がどうこうではなく、氣を遣ったり生活サイクルが非日常になることが苦手だ。独り暮らしでは特に問題はなかったが、夫と暮らすようになって特にそうだ。彼の生活パターンもあるし、今住んでいるところがちょっと不便だということも大きな理由。

でも、友達の家に泊まることはそんなに嫌ではない。きっとこれを読んだ時点で「なんて勝手な奴」と思われるだろう。そう勝手なのだ。みんなも勝手でいいのだよ。

自分の心地よさ優先

断れない人たちは、自分より他人の優先順位が高い。自分でも納得してそうなのであれば、問題ない。でも、どこかに違和感を抱えつつ、無意識的に他者を優先するから、心が疲弊する。断るということは自分を優先するということだ。

断ることには、怖さも抵抗も生まれると思う。でも、その一瞬のドキドキと、断った後の解放感を比べてみてほしい。その心地よさを優先してほしい。

嫌われようと言っているのではなく、嫌われるかもしれないという幻想を手放そうということ。万が一、疎遠になっても、意思表示をしただけで離れていくなら、それまでの人間関係。心地よさを互いに理解できる人との関係構築を進めていけばいい。

断るという選択肢、持ってみよう。

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