どうも、谷口佳奈子です。
前回こんな記事を書きました。生きるということに新たな解釈を持ったという話です。
また、最近こんな本を読んでいます。まだ全部読めていないのだけど、なかなか面白いです。
ラブ、安堵、ピース 東洋哲学の原点 超訳『老子道徳経』
もともとは夫が老荘思想が自分たちの生き方に近いと思うと言っていたことから、以前どなたかがオススメしていた本を思い出し、老子の考え方とはどんなもんかと読み始めました。
確かに「あるがままに生きる」という観点では理想の生き方だなと思えます。ただ、目から鱗だったのは「この世のすべてが【解釈の世界】である」ということ。
各々の目を通して現実を見ているということはわかっているのですが、個人という存在そのものも【解釈】の上に成り立っているんだと。つまり個別の命があるのではなく、無限に広がるたった一つの「命」という空間の中にすべての存在が含まれていて、生死という区切りさえないということだそう。
一部を引用すると
「君が動いている」のではなく、「動き」が、”君を含めたすべての現象”として現れているんだ。
「君が生きている」のではなく、「生」が、”君を含めたすべての現象”として現れているんだ。
どう?1度読んだくらいじゃ、すんなりとは入ってこない内容だよね。笑
だけど、私はこのくだりを読んで、ますます生きることが楽に感じました。私という存在は認識するからこそ私なのであって、宇宙の流れに含まれたその一部分であるならば、なぜ生きるのかという問いも不要だし、生きる目的や意味を持たなくとも存在していられるんだと思ったんです。それが【あるがまま】ということなんだなと。
その上で、じゃあ自然の流れとして生を全うするならば、心地よい生き方、ありたい姿に沿って毎日を過ごせばいいってことよね、とそう思えたんですよね。
その時に思ったのが、私が今ここに存在しているのは「必然の偶然」なんだということ。
もちろん、老子の考え方でいけば必然ということすら無いんだろうけど、私の”解釈”を通すと、大きな偶然の中にポッと湧き出た偶然は必然の出来事なんだろうと感じます。(ややこしい?笑)
晴れの日もあれば雨の日もあるように、人だって同じように、みな自然の摂理に従って生きていればいいんですよね。何かをうまくいかせるためにとか、自分の評価を上げたいみたいな欲や反対の落胆もなく、ただただそこに存在する。
向上心を高く持っている人たちにはつまらない生き方に見えちゃうかもしれないけど。苦笑
この数カ月で図らずしも生きるという事に向き合うこととなりました。私の中では落としどころが定まっていい感じです。皆さんは生きるということ、どんな風に考えてらっしゃいますか?
さて今日も、ここにいるという必然の偶然を面白がって過ごしましょー!ばいばーい!
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