私の死生観。

しせい‐かん ‥クヮン【死生観】
〘名〙 生きることと死ぬことについて、判断や行為の指針となるべき考え方。生と死に対する見方。

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出典 精選版 日本国語大辞典

お久しぶりです。

いきなり何!?って始まり方ですね。笑

引っ越しから2週間が経ち、日常生活に戻りつつあります。が、引っ越し直後から、まー本当に色々起こっています。給湯器が壊れるとか、サイズ測って購入したものが合わないとか、些細なことから、夫の仕事がらみで生活に関わることとかも。

その中のひとつに、友人の死がありました。

とても仲良くしていた友達。癌で闘病が続いていたため、いずれこの日が来るであろうことは予測していたものの、やっぱり来てしまったかという落胆は否めません。

この出来事もあって、いやその前から、夫婦で「生きること死ぬこと」について話す機会が多かったので、今日は私の死生観について書いてみようかなと思います。

全くパートナーシップには関係ないんですけど、興味があれば読んでみてください。

冒頭に載せたように、死生観とは生き死にに関してどう捉えているかということ。判断や行動の指針としたことはないんですが。(みなさんはどうですか?)

さて、私は人が生きること死ぬことについて、ものすごくドライです。(と自分では思ってます)

もちろん、今回のように友人が無くなって「ああ、もう話すことってできないんだな」という寂しい氣持ちは備わっているのですが、心のどこかで“死は人間に訪れる当たり前の結果”という感覚でいるのです。それは私にも訪れること。

ブログでも書いたことがありますが、私は昔から「人はいずれ死んでいくのにどうして生まれてくるんだろう」という考えを持っています。ゼロから生まれてゼロに戻っていく。ならば、その間にある時間、それに加わる紆余曲折って必要か?そもそも生命は必要か?って。

私なんて生きてる意味(価値)がないや。。。みたいなネガティブモードではなく、淡々とした疑問、しかも答えのない問いです。

その話を夫とするといつも彼は「意味がない期間だからこそ楽しく過ごそうって思うねん」と言います。それでこの間氣づいたのは、夫は生きることに対して有機的、私は無機質だということ。だから死ぬことに関してもニュートラルに捉えているんじゃないだろうか。生まれてくることと死んでいくことは事象として大きな差がない、という感じです。

友人が無くなった時、切なさと共に湧いた感情として「もう弱っていく姿を見なくていいんだな」というのがありました。少しホッとしてしまったんですよね。本人はどう感じていたかはわからないけど、私としては苦しんで欲しくないというのが素直な感情でした。

でもこの感覚って、一般にある「生き続けてほしい」という願いとは少し乖離があるじゃないですか。私の主観ですし。この冷静さがドライやなと自分でも思ったわけです。

ただ、そんな自分を受け入れているので、他の人と違ったとしても「それが私の死生観」とだけ再認識するんですよね。ドライな自分を「ああそうだった」と改めて知る。

死生観と話がずれますが、この“ドライな私”に関して、夫との会話の中で目からウロコな氣づきもありました。これはまた別の機会に書くとします。

ここまで書いてみて、自分で読んでみて、「だから何なんや笑」と思いましたが、このまま記事をアップします。皆さんの死生観はどんなものですかー?

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