優等生的かまってちゃん。

こんにちは。夫から、最近の中学生の様子を聞くたびに、自分の中学時代を振り返ったりします。その時はそれなりに楽しんでいたのかもしれませんが、今となってはあまり覚えていないのです。嫌な思い出でもなければ、凄く印象深いわけでもなく。

ただ、教師には氣に入られやすかった、というのは覚えています。自分で言うのもなんですが、そこそこ勉強もできて、従順な生徒でしたし、理解力もあったと思うので、先生からすると扱いやすい、いや、使いやすい生徒だったのではないかと思います。よく頼まれごともしましたし。

優等生という立ち位置

いわゆる“良い子”という認定を、周りの大人からされていると、そこから大きく外れることを怖がります。怖がるというよりは、想像もつかないといった感じでしょうか。優等生じゃない自分なんて、この世に存在しない、と信じていますから。

よく夫が「自分が思ったことは誰もが発言する権利がある」と中学生に伝えているそうです。その声によって、変化が起きなかったとしても、言いたいことは言うべきだ、と。

それを聞いていつも思うのが、私は大人が決めたルールに対して「これは変だぞ!」とさえ思わなかったということ。反論しなかったのではなく、そもそも従うことが普通だと思っていたから。

いかに手柄を立てるか

その中で、いかに良い働きを見せるか、いかに手柄を立てるかが、私にとっては重要でした。「さすが」と言われることは何よりのご褒美だったんです。

「そりゃ、言うこと聞いて、真面目な子の方が素晴らしいじゃない。何が変なの?」と思われるかもしれません。確かに、違反もせず卒なくこなせる生徒は重宝されるでしょう。大人には。

この“大人に”というところが、またひとつ厄介な性質を持っていると思うのです。

目上の人に喜ばれたい、ということ自体が、過度な承認欲求であり、上下関係の世界で生きているということだからです。これは長女氣質の人に多いんじゃないかなぁ。兄弟姉妹が生まれた時点で、必然的に上下を味わうから。

そして、手柄を立てることで大人が喜び、私に目をかけてくれるという経験を重ねます。何か特別扱いされている感じに、優越感を覚えるのです。

褒め言葉がガソリン

こういった学校での振る舞いは努力してやっていたことではなく、自然とできていました。頑張って優等生を演じていたわけではなく、氣付けばそうだったという感じ。

どういった場面でも褒められることは大事で、褒め言葉をガソリンのように求めていたんだと思います。それがあるから起動するんですよね。

「私、褒められることが好き」と自覚してましたもん。まぁ、褒められることが嫌いな人はいないでしょうけど。

今は特に、褒める教育を推奨していますしね。果たしてそれが教育といえるのかは謎ですが。

ガス欠が起きる

褒め言葉、他者からの承認、特別扱い、これらを求め続けるってことは、ガソリンを入れ続けるってことですよね。自分ではエネルギーを生み出せない状態。

つまり、ガス欠が定期的に起こるんですよ。しかも、ガソリン(エネルギー)は不安な状況では消費が速いから、もっと入れきゃいけなくなる。

これが「私を見て」ってことです。「私にエネルギーを注いでよー」って、全身から滲み出ちゃう。ほら、これが優等生的なかまってちゃんの仕組みです。

自給自足に切り替える

ガス欠を起こさない=他者からのエネルギーを欲しない、ためには、自分でそのエネルギーを作り出す必要があります。自分で自身で認める(褒める)んです。

全てのベクトルが自分の中で完結します。外へ向かない。

急には難しいかもしれませんが、自分を内側から満たせるようになると、徐々に褒め言葉が要らなくなってきます。(褒められて嬉しいのはそのままで大丈夫)

そうなると、自分責めが減ります。期待に応えなければという過剰なプレッシャーから解放されます。だって、エネルギー確保のために動かなくていいから。

人にどう思われるかを考える時間で、エネルギーの自己生産を強化していけるといいですよね。枯渇しない自分のエネルギー。

ま、たまには信頼のおける人に、褒めちぎってもらうのも良いですけどね。ドーピングだね。笑

1年前にこんなことも書いていましたので、よかったら参考にどうぞ。

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